新着記事
人気記事

    2005年11月01日

    勝負とはなんだ

    負け犬にはなりたくない。だが人を蹴落として生きていくような真似はしたくない。

    デュークです。


    それは時に偽善と言われ、時に負け犬と呼ばれる。


    ・勝者と敗者
    世の中には勝者と敗者という明確な区別がある。間違いなくある。
    『勝者が天狗になっているのが気に食わない』『自分は敗者だが、人間的には勝者に勝っている』。これらは正しいのか、それとも負け犬の遠吠えというか、敗者が必死に自己を正当化しようとしているだけなのか…。

    この勝者と敗者の比較をいくらしてみたところで、答えは出てこない。では俺なりの結論を導いてみる。

    つまり、比較ではない。中立はありえない。客観的な見方はこの件には通用しない。客観視して答えが導かれる問題は実はさほど難しい問題ではない。
    客観的に見ることができない問題についての答えを出す方法を考えると、理想を追うという道が見えてくる。
    今回の場合の理想とはつまり、勝者でありながら謙虚な心を持つこと。これを理想とした場合、高慢な勝者も謙虚な敗者も総合的に見て理想には届いていない。謙虚な勝者だけが理想的な存在と言える。

    しかし、この答えを実質上の敗者である俺が書いても単なる負け犬の遠吠えである。無駄。つまり、敗者が勝者に理想を求めるのは不可能と考えなければならない。
    ではどうするか?自分が理想の存在になればよいのではないだろうか?
    第一関門、勝者になること。まずはこれ。敗者には勝者に対して発言権はない。負けているのだから当たり前である。発言権を得るために自ら勝者にならなければならない。これが多くの場合達成できずに終わる。

    第二関門、謙虚になること。勝者になってからはじめて謙虚さが求められる。敗者は謙虚さを捨て、貪欲に勝利を追求しなければならない。
    発言権を得た勝者は、自らの内にあるあらゆる欲を抑え、謙虚さを保たなければならない。これも人間という生き物にはなかなか難しい。何しろ、謙虚でなくても別段困らないし、むしろ高慢でいた方が美味しいのだから。
    だが、ここで欲望に負ければただの勝者。理想はその更に向こう側にある。
    謙虚さを持った勝者は誰の目から見ても美しく見える。が、同時にそれは偽善的にも見える。どうしてか?勝者が謙虚であってもそうでなくても、敗者たちの心の中には劣等感や嫉みがあるからである。つまり、勝者は敗者から見れば嫉ましい存在でしかない。勝者がどんな善人でも、敗者が勝者を悪にしたがる。そうやって敗者の中には闘志や向上心が生まれる。
    結局、理想は理想であって、例え勝者が理想ぶっても敗者はそれを認めない。戦う者の間にあるのは勝者と敗者の間に存在する侮蔑と嫉妬、敗者同士の馴れ合い、勝者同士の探り合いのみ。夢幻でも妄想でもなく、これが現実。
    だが、敗者同士の馴れ合いの何が悪い?勝者同士の探り合いのどこが悪い?侮蔑、嫉妬がなぜいけない?勝負の世界に生きるなら、それさえも楽しまなければ生きてはいけない。
    馴れ合いを友情と呼んでみればいい。探り合いを認め合いだと言ってみればいい。それらは決して嘘偽りではない。名前が違うだけ。要は考え様。
    唯一プラスに転じにくいのは勝者と敗者の間。勝者には何の不満もないだろう。あるのは敗者のみ。なら、敗者が勝者になればいい。他の関係は筋が通っている。唯一筋が通らないのが敗者が感じる嫌悪。これは逆ギレとしか言い様がない。

    さてさて、俺は先にこう書いた。「敗者には勝者に対する発言権はない」と。そこでこの記事に対する矛盾を感じるだろう。しかし、矛盾はしていないはず。俺は勝者には何一つ求めていない。俺が呼び掛ける対象は俺と同じ多くの敗者たち。例え勝者に馴れ合いと言われても、敗者は友情を築くべきだ。それが拠り所になる。不満なら勝者になるしかないのだ。そして、敗者は勝者に何かを求めるべきではない。勝者は敗者を思わない。もし答えても、それは勝者の傲慢や同情に過ぎない。それはあまりに惨めではないだろうか?

    戦いの世界にいる以上、敗者は勝者を目指す。勝者はほんの一握りしかいないのだから勝者になれなくても仕方ない。なんてはじめから諦めるのは無意味。そんな奴は必要ない。勝者と敗者の関係は赤組白組の分かれ方とは根本的に違う。勝者と敗者は対等ではない。勝者は敗者よりも高い位置に存在する。敗者は敗者なのだ。

    勝たなければ意味がない世界。


    おわし

    posted by デューク at 00:28| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする